最新鋭ねこ ver.2.0の活動へ移行
この数年、ビジネス一辺倒で分刻みの多忙な毎日を送っていましたが、2021年6月よりQOL重視の生活に切り替えることとしました。
それに伴い、研究活動やそのアウトプットの発信も再開していきたいと思います。
Blogの時代でもありませんので、アウトプットの形式や使用するメディアは切り替えていく予定です。
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大躍進 ー飢餓と嘘の支配ー(4/4)
(続き)
農村部が絶望的な状況に陥っていた1959年、故郷の田舎を訪れた際に農村の危機を知った国防部長の彭徳懐は、毛沢東に大躍進の方針転換を促す慎重で丁寧な手紙を個人的に送りましたが、自分の方針を否定された毛沢東は夜も眠れないほど怒り狂ったといいます。
※「鶏の羽やニンニクの皮のようなどうでもいいこと(で、いちゃもん付けやがって!)」という怒り方だったと記録が残っています。「鶏の羽やニンニクの皮」とは、農民の命の事です。
毛沢東は腰巾着の林彪と協力して彭徳懐を攻撃し、毛沢東を恐れる劉少奇や周恩来らもそれに同調しました。彭徳懐は失脚し、それに続いて大躍進に批判的だった360万人もの党員が全国で粛清されました。
毛沢東の側についた林彪や周恩来も、本心では大躍進を支持していなかったことが後年明らかになっており、嘘つきだけが生存できる社会だったことが分かります。
※林彪は失脚後、日記に「全くの滅茶苦茶な政策」と記載されていたことが発覚しました。
周恩来は、側近と二人の時に「(日中)戦争の時より酷い状況だ」とこぼしたそうです。
1961年、自分の目と耳で状況を確認するため故郷の田舎を密かに偵察した首相の劉少奇は、故郷を飢えと恐怖が支配していることに大きなショックを受けました。彼は遅まきながら大躍進の失敗を訴え、毛沢東に何度も議論を挑み、次第に毛沢東の権威は失墜、経済方針も段々と修正され、大躍進は終息へと向かいました。
・「状況は真っ暗闇だということを直視しよう。人災が7割だ。」
※誤りが1割というのが、毛沢東の譲れないライン
・「飢えた人が、飢えた人を食っている。」
・「自分も、あなた(毛沢東)も歴史に悪名を残しますよ。」
といった生々しいやり取りが記録に残っています。
中国の社会はやっと一息ついたかに見えましたが、4年後には権力の再奪取を狙う毛沢東が更なる社会構造の破壊をもたらす文化大革命を発動し、大躍進を批判した劉少奇や彭徳懐は、毛沢東の反撃に合い悲惨な死を遂げます。4500万人が死亡した世界史上最大の飢餓を招いた大躍進は、共産主義を目指す中国の歴史の中でも、まだ前半に過ぎないのです。
(終わり)
大躍進 ー飢餓と嘘の支配ー(3/4)
(続き)
妄想施策を強制的に押し付けられたことで、全国の農民は疲弊させられ農業は大混乱、収穫量は大きく落ち込みましたが、すべての報告は奇跡的な成長という楽観論に染まっていました。毛沢東らは「余った」食糧をどうするかで頭を悩ませ、農民の労働力を農業ではなく、製鉄や灌漑工事に振り向けるようになります。
前年比2倍、1070万トンの製鉄を目指す野心的な目標は、農業と同様に素人の妄想をもとに実施されました。機能しない原始的な高炉が全国の農村に50万基も設置され、4000万人を動員、1日14時間以上の熱く過酷な労働に倒れる人も続出しました。
※土法高炉
鉄鉱石が調達できないので、農具や家具の鉄が片っ端から投げ込まれ、くず鉄が全国で量産されました。(貧しい農村の大事な資産を、大量の人的リソースを投じてゴミに変える作業です)農業や他の産業を犠牲にして注力した製鉄は極端な非効率を生み出しました。また、高炉で燃やすために大量の樹木が伐採され、史上空前の規模で森林破壊が起こりました。
効率的な農業生産を目指して、非現実的で拙速な灌漑工事が全国で実施されました。目標を達成するためにスピードが重視され、各地で掘った土の量を無意味に競い合いました。(安徽省200億立方メートル、河南省300億立方メートル)河南省では1万を超える大小のダムが建設されました。
※経済の論理ではなく政治の論理でやる事なんてこんなもので、全くの無駄です。
世界最速のスピードで作られた無数のダムは、灌漑面積を増やすことなく次々と決壊していき、約3000のダムが20年以内に決壊しました。特に1975年には板橋(ばんきょう)ダムを始めとする大小61のダムが台風で一気に決壊し、溺死に加え、疫病や飢えなどの二次災害で20万人以上が死亡、200万人が被災しました。これは世界最悪のダム決壊事故です。
※1975年の板橋ダム決壊事故。溺死だけで2万人以上といわれています。
指導部は都市部の労働者を食わせ、輸入品の代金を農産物で支払うため、農村からの収奪を強化しました。農村部にはもはや食料はなく収奪は過酷を極めました。抵抗した者、非協力的な者には暴力が振るわれ、家屋は破壊され、どんなガラクタでも残ったものは奪われ、農民は文字通りの無一文となり飢えと寒さに苦しみました。ある地域(甘粛省通渭県)の公文書には「人々は撲殺され、肥料にされた」という記述すらありました。
人民公社によって農民が奪われたもの:
・労働力とその生産物のすべて
・私有財産のすべて(鍋釜、針1本に至るまで)
・収入源(クーポンや労働点数という地方官僚が気まぐれに発行する紙切れがもらえます)
・何を食べるかの判断、他地域への移動等のあらゆる自由
共産党指導部の無茶ぶりと人民公社によって、農民は労働力とその生産物のすべて、私有財産のすべて、収入源、一切の自由を奪われました。これは農民の奴隷化と同義であり、当時の中国は5億人の奴隷を虐げる世界史上最大の奴隷制国家だったのです。
奴隷化され餓死に直面した農民は、様々な代用食を必死に探しました。野草やトウモロコシの軸やネズミ等に始まり、革のベルト、屋根の藁、毒がないすべての草、木の皮、虫を食べるようになり、遂には土(観音土という鉱物、栄養はない)を食べるために列を作りました。
遺体を埋葬する体力がある人々はもはやおらず、遺体は道端、家の周りや池などに無造作に放置され、家族も崩壊、多数の孤児も発生し、生きるためのカニバリズムに走る人々が全国で発生しました。
このような最悪の事態に至っても、各地の指導者の多くは弾圧されることを恐れて実態を正直に報告することも、食糧支援を頼むこともできず無数の農民が餓死していったのです。
最も餓死者が多かった1959年から60年にかけて、中国政府は農村から買い上げた食糧を十分に貯蔵していました。(月次統計:1400万トンから4400万トン) 貯蔵量が最少の月でも1400万トン、日本国内に換算して2年分のコメ消費量を保管しており、これを放出すれば餓死を避けることはできたのです。※4千万人の餓死を避けるには十分な量です。
(続く)
大躍進 ー飢餓と嘘の支配ー(2/4)
(続き)
大躍進の始まり
中華人民共和国は建国したものの、その立場はまだ脆弱で、国際的にも多くの国は中華人民共和国を認めていませんでした。毛沢東は社会主義、共産主義のリーダーであるソ連の援助で工業化を進めてきました。
1957年、毛沢東がソ連を訪問した際、フルシチョフがアメリカを15年で抜くと啖呵を切ったことに対抗心を燃やし、中国はイギリスを15年で抜き去るとイキり倒して帰国、以後の経済建設を加速させようとする大躍進が始まります。
毛沢東を筆頭に大躍進の推進派が非現実的な目標を設定したため、周恩来のように慎重論を唱えた人も出ましたが、こうした人々は毛沢東に強く批判され屈服しました。反対派を粛清し、慎重派を黙らせることに成功した毛沢東は、周囲に自らを個人崇拝するよう強要しました。
現実的な慎重論を唱えれば粛清されかねない状況の中、自分が弾圧されることの恐怖と上層部へのアピールのために、各地の指導者らは競って非現実的な高い目標値を掲げるようになりました。
非現実的に高い目標を掲げない場合はもちろん、目標が達成できない場合もサボタージュと見なされ弾圧されたため、農業では実際の収穫量とは関係なく、誇張された収穫量が報告され、これも各地で競い合いとなりました。最も大げさな報告では、単位面積当たりの米の収穫量が現代の日本の50倍を超えるものまでありました。
※「早稻亩产三万六千九百多斤」→276.75トン /ヘクタール 現代の日本:約5トン/ヘクタール
収穫量が奇跡的に増加しているという報告とは裏腹に、後年明らかになった実態は前年比で大きな減少となっていました。毛沢東ら上層部は明らかに誇張された収穫量の報告を信じたわけではありませんでしたが、楽観的な報告だけを聞いて有頂天になっていた彼らは、実際の伸び率がどれほどかを議論しても、そもそも減少していたとは思わなかったのです。上層部から投げられた嘘は、収穫期になって自分たちのところに戻ってきたのです。
全力で農業に力を入れたのに、なぜ、生産量が大幅に減少したのでしょうか。
上層部から指示された「新農法」は、実際の農業では害にしかならない妄想でした。
・「密植」(1cmずれているから全部やり直しとかザラ)、
・「深耕」(1mとか穴を掘らされる)、
・「肥料の大量使用」(髪の毛やれんがまで放り込むレベルで、何でも肥料として投げ込む)、
・「スズメたたき」(これは有名)
といった多くの施策が熱狂的に実施されましたが、これらは労働力を浪費し、農地を荒廃させただけでした。現場の農民たちは、現実に沿ったアドバイスをしても迫害されただけだったので、だんまりを決め込むようになりました。こうして育てられた作物は、生産コストを下回る金額で国家が買い取ったため、農民は疲弊しました。
また、農業を集団で行うために農地は共同所有の名目で取り上げられ、無料で食べることができる食堂が各地に作られました。この人民公社と呼ばれる共同体への参加を命じられると、農民は自分の家畜や食料を参加前に使い切ろうとするようになり、農村の食料ストックは減少しました。
毛沢東は人民公社を絶賛し目玉政策となりましたが、土地の共同所有と無料食堂は、社会システムを根本的に破壊するインパクトを持っていました。
・女性の家事労働が不要になり、女性の労働力を政府が使えるようになる
・家の調理器具を没収する
→食材も没収する
→私有財産を完全否定する(鍋釜1つ、針1本も許さない)
→家族を消滅させる
→究極の共産主義の完成
共同食堂では食べ放題施策が推進されたため、農村では大量の食糧が無駄にされました。
後先を考えない食べ放題の結果、多くの食堂は数か月で破綻し、まともに食料を供給できなくなりましたが、この時、農民の手元にはもはや何も残っておらず、僅かな食料を求めて食堂に並ぶしかありませんでした。
食堂を管理する幹部は、僅かな食料を盾にとり、弾圧の恐怖と日常的な暴力で農民を支配しました。労働の代価はお金ではなく「労働点数」によって支払われる地域もあり、収入もなくなりました。
(続く)
大躍進 ー飢餓と嘘の支配ー(1/4)
中国で共産主義を夢見た毛沢東が推し進めた大躍進政策は、飢えと暴力と嘘にまみれ、単純な死者数という点では有名な文化大革命よりもはるかに多い4500万人以上と見られる世界史上最大の飢餓事件です。今回は中華人民共和国の建国後、文革以前の歴史を大躍進を中心に解説します。

第二次大戦後に中国国民党と中国共産党との間で行われた内戦は、中国共産党の勝利に終わり、1949年10月1日、毛沢東によって中華人民共和国の建国が宣言されました。
農村部では、建国前から行われていた土地改革による農地の再分配も本格的に進められるようになりましたが、その実態は過酷なものでした。共産党は「土地改革工作隊」を各地の農村に送り込み、農村の富裕層や地主への敵意を煽り、彼らを人民裁判にかけ、次々と処刑して土地を奪い農民に分配しました。
※弾圧される地主層
研究者の推計では100万人以上の地主らが殺害され土地や財産を奪われました。殺されなかった地主も土地を奪われ、殺された何倍もの人数が(ソ連のグラグをモデルにした)強制労働収容所(労改)に送られ、洗脳と奴隷労働を強いられました。
貧しい農民は共産党と共犯関係になり、分け前の土地も手に入れたため毛沢東を支持するようになりましたが、やっと所有できるようになった土地は、わずか4年後にはすべて国家に取り上げられてしまいます。
都市部では民間企業、芸術や言論の弾圧が続いており、知識人や言論人の反発が高まっていたため、毛沢東は高まる不満を解決しようと、批判的な言論を容認する姿勢を示しました。
しかし、言論人、知識人から噴き出した不満の激しさは予想をはるかに上回り、驚いた毛沢東は手のひらを返して言論人の弾圧を一気に進め、50万人以上の言論人、知識人などが粛清され辺境の強制労働収容所へ送られました。共産党は「不満分子をあぶり出し、粛清するための名策だった」と、騙し討ちを誇りました。
これによって各分野の専門家やまともな判断力を持つ人材が影響力を失い、以後、共産党が次々に打ち出す騒がしいだけのネタ施策を熱狂的に崇める風潮が社会を支配するようになり、大躍進や文革の下地が整ったのです。
(続く)