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自由と寛容 一リバタリアンの意見

 リバタリアンが最も重視する事。それは自由である。
社会の評価基準は、どれだけ自由であるかが決定的に重要である。
そもそもなぜ自由が重要なのか。リバタリアンにとって、自由はもはや本能レベルで絶対に欠く事ができない決定的要因だが、より普遍的な言い方をするなら、人間は対等である(という前提に立っている)ので、誰も他者を抑圧する権利を持たないのだ。抑圧とは、「他者の自由をその同意に拠らず奪う事」を意味し、他者を抑圧することは、その個人に対する敵対行為であり、場合によっては宣戦布告と解釈し得る。リバタリアンであるためには自由を好むだけでは十分では無く、自己と同等の自由を全ての他者が持っている事も認めなければならない。

リバタリアニズムは、「・・・からの自由(消極的自由)」と表現される権利を保証している。例えば「豊かな生活をする権利」ではなく、「貧困や平等を強制される事からの自由」を保証しているのである。前者は「豊かな生活をさせる義務」を内包しており、他者に義務を負わせることで抑圧に加担している。後者は自由な経済活動を認めており、その結果には言及していない。

 社会の「自由度」は、どのようにして知る事ができるだろうか。
非常に単純化して言うと、これは「抑圧」の度合いによって知る事ができる。つまり、抑圧が少ない社会は「自由なよい社会」であり、抑圧が大きい(あるいは多い)社会は「不自由でダメな社会」だ。

 最も抑圧的な社会とは、左翼右翼を問わず「全体主義体制」下の社会である。その完成形は、オーウェルの『1984年』に描かれている。幸いなことに、世界史上、そこまで抑圧的な国家や社会は現実に存在した事が無い。
現実に存在した最も抑圧的な社会は、ナチスドイツやスターリンのソ連、文革時代の中国、ポルポトのカンボジア、北朝鮮などを頂点としている。自由な言論や行動(アウトプット)が許されない事はもちろん、自由に情報を手に入れる事(インプット)すらも許されない。自由を行使する代償には、文字通りの意味で「命」が必要であった。
 抑圧は「寛容性」の欠如から生じる。これは政治体制だけでなく一般的な文脈においても同様だ。なぜ非寛容なのかは色々な理由があるだろう。他者を恐れているから、憎悪しているから、あるいは権力欲に取り憑かれているからかもしれない。しかし、理由はどうでもいい。どんな理由があるのかは究極的には個人的事情であるし、他者の権利を侵害する正当な理由にはならない。

 一方で完全にリバタリアンな社会も存在した事は無い。「究極の全体主義」も「究極のリバタリアニズム」も理念でのみ存在する概念であり、現実の世界はその中間で綱引きを続ける事になる。その現実の中で、社会がより自由であるために期待されているのは、「気に食わない事」「気持ち悪い事」への寛容性である。どれだけ「気に食わない事」や「気持ち悪い事」を容認(もちろん支持などしなくていい)できるかが、自由を保証するための寛容性を測定する基準となる。「好きな事」や「良いと思う事」に寛容なのは当たり前だからだ。一方で「実害」や「権利の侵害」には妥協する必要は無い。それに立ち向かうのは正当な権利であり、リバタリアンな社会を維持、発展させるためには奨励されるべき行動と言える。

 全体主義者が他者を抑圧するのは理念の上でも当然であるが、リバタリアンが全体主義者を抑圧する事は自己矛盾であり許されていない(反対する事や敵対する事は問題ない)ため、リバタリアンはハンディキャップマッチを余儀なくされる。この本質的不利にも関わらず勝利する(最悪でも優勢を保つ)ためには、リバタリアンが全体主義者に対して能力面や勢力面で勝っている必要がある事を意味している。

以上、リバタリアニズムの要点整理をメモ書き。

    
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テーマ : それでいいのか日本国民
ジャンル : 政治・経済

tag : リバタリアン リバタリアニズム

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No title

自由が大切であるという価値観がまずあって、その自由を尊重する社会をつくり、それを守るためにその社会強いものにしていかねばならないという流れの話と理解いたしました。
私は、逆に統制的な社会に比べて個人が自由に経済活動できる社会の方が経済発展(それにともなう住民の生活の向上)という点で優れているために、自由が尊重される社会がのぞましく、それを支えるために自由が大切であるという価値観が生じたと考えているのですがいかがでしょうか。
社会主義国家が20世紀末に続々と崩壊したのはまさに統制的な経済活動の非効率性が社会主義のイデオロギーの正当性を失わせたためと私は考えています。

No title

>鮪さん
おっしゃるように自由には様々な「効能」があります。
今回は概念整理のメモ書きにしようと思ったので、そういった実利や実例には触れませんでした。それはそれでまた別途書くつもりです。

 他者を説得する際には自由の効能を訴えるのが有効な面もあると思います。自分の本音は今回の内容の通り、自由そのものに価値を認めているのです。なぜと聞かれても正直困ります。自然権を元にした回答を返す事もできますが、それは本音ではなくなってしまうでしょう。自分が自由に執着する本音は感情論であり、イデオロギーです。

 独立戦争の「自由か死か」という名言に全てが象徴されると思います(このタイプの思想は別にアメリカだけで見られるものではありませんが)。これも自由の効能ゆえに自由を訴えているわけではないですね。死んだら効能も何も意味を持ちませんから。

 もしかすると、大まじめな共産主義者は私のような人間が「自由」に執着するのと同じように、根源的にはイデオロギーや感情論で「平等」に執着するのかもしれませんね。同様に「異性」、「権力」、「家族」、「信仰」に執着するあまり命をかけられる(=実益が理由では無い)という人々もたくさんいるわけで、自分は「自由」にそれだけの価値を感じた例なのだと思います。

No title

ご返答ありがとうございます。ねこさんは自由というものをそのようにお考えなのですね。私は人間を一つの生物種として見る観点から衣食住という生命維持の条件に重点を置いて考えております。生物の社会はそれぞれ異なったやり方で回っていて、ヒトが社会性の動物として社会を営んでいく上で自由いうのはそこを動かすために導入された「フィクション」のひとつであると思われます。例えばアリなどではある種のフェロモン物質がその社会を動かすための仲立ちとなっているように。どうして他人の自由を侵害してはいけないのか?それはこの社会をまわしていくということのほうが自由そのものの価値よりも上位にあるからではないでしょうか。こういう価値観はそれらそのものに意味があるわけではなく、意味があると社会が認めることによって社会がうまく仕組みが回っていくような代物であると思います。
いわゆる先進国では「自由」という価値観はそれなりにうまく機能しているようですが、それはかならずしも絶対のものではなくて、この価値観が機能するためにはいくつもの条件が存在すると考えております、もしかすると今の中国にはこの価値観が通用するためのなんらかの条件が欠けているのではないかとも考えております。

No title

>どうして他人の自由を侵害してはいけないのか?それはこの社会をまわし
>ていくということのほうが自由そのものの価値よりも上位にあるからではな
>いでしょうか。

 自分は、他者の自由を侵害する事を認めれば、行きつく先には抑圧的な社会しか生まれないと始めは理論的に理解していました。中国の社会を体験してからは実体験としても他者を対等に扱うという原則が自由に資すると確信しています。中国人は一見すると自由に生きて行く事を望んでいるようですが、彼らは他者の自由を全く認めていません。そのため、実際にはサバイバル競争をベースとし、力ある者が他者を抑圧する社会になっているのだと解釈しています。

人間はむろんヒトという生物でもありますが、人間というもう一つの側面は、生物学的に処理できる存在では無いと考えています。衣食住だけで生きていく事はできないという人間は、現実に多数存在しているでしょう。例えば終身刑(言うまでも無く衣食住は保証されています)と自殺、どちらを選ぶか聞かれた時に皆が皆、終身刑を選ぶとは全く考えられません。人生の選択権を奪われた生を受け入れらない人は、ヒトであるよりも人間なのだと思います。生物学的には不良品かもしれませんが。

No title

自由なんて衆愚の無知蒙昧かつ後先無視の行動(近代でいえば旧ユーゴスラビア内戦に端を発した民族主義)や、独善的道徳観を是認するなど、ろくでもない火種になるとしか考えてないないのですが、どうでしょう?

それにリバタリアンは価値ある産業や技術を守る事のできる政府の力を弱めて、金策や同業他社の排除を方針にしている企業を台頭させてこの世をゴミだらけにしたいみたいですな。

自由は求めるからこそ美しいのであって、手にしたときにそれが個人の手に余る物だと気づく。
人間そんなたいしたもんじゃないよ、まあだからこそ面白いんですけどね。

No title

>あさん
中国に行っていたので返事が遅れてすみません。中国からはFC2関連にアクセスできないので。

自由それ自体は何もベクトルを持っていませんから、ロクでもない物を生むこともあるでしょう。自由から何が生まれてくるかは誰にもわかりません。しかし、自由を維持し続ける限り、どのような間違いも正される可能性を残していますから絶望する必要もないのです。自由がないところでの過ちは正されることがありませんから、そこに絶望が生まれます。個人は間違います。政府も間違います。それを訂正するために自由が必要なのです。自分は間違わない。自分たちは間違わないと考える人や組織は、他者を抑圧することを正当化します。しかし、間違いを犯さない存在は皆無ですから、抑圧を正当化できる者もいないのです。

自分は人間同士が衝突したり、火種を作ることを悪いことだとは全く思いません。
その衝突を血が流れない形で、何らかのルール内での競争というかたちで行えるならば理想的です。現代ならば経済における自由競争がそれにあたる代表的な仕組みであると考えています。

>価値ある産業や技術
これを誰がどのように選ぶのですか? 「衆愚」とは異なる偉大な指導者様ですか? 政府を運用している官僚や公務員が、社会の一般人とどう違うのですか? 彼らのほとんどは単なる安定志向のサラリーマンにすぎませんよ。

No title

かなりなめた文章だったのに返信、ありがとうございます。

市民の批判や、政治家の弾劾はなるほど必要でしょう。それがなければ間違いも正す事が出来ず、政府が極端な方向に走る事も多々。
中国については伝聞での知識しかありませんが、ロシアなんかでは政府の強権ゆえ批判は政府に通らず、変化を望めぬ若者の間に蔓延する閉塞感は並大抵な物ではない訳ですしね。

ただ人間に指導者(共産主義的な物ではなく、古代ローマのような比較的自由な風土のもとに立つ指導者)は必要で、ある程度自由は抑制すべきだとはやはり思いますがね。例えそれが安定志向のサラリーマンであれ。
小さな組織、例えば中小企業なんかでは、経営者次第でいくらでも従業員の自由な意見を受け止めてよい方向に進める事が出来ますが、規模が大きくなればなるほどこれは難しくなります。
そして多いに平等と自由が行き渡っている国では、たくさんの人間が権利を主張できる訳ですから、色々な意見が飛び交う訳です。これを誰が受け止めるのでしょうか?まさか野放し?
上記のように政策に対する批判などは存在してしかるべきですが、各々の権利を許してばかりではまとまる物もまとまらないと思いますがね。ある程度方針の定まった政治家たちが手綱を握るべきです。ある程度の弾圧だって必要かと、行き過ぎた自由は市民の腐敗だって生む訳ですから。もちろん極端なものは許されるものではないですが。
まあ月並みですがやはりバランスが大事かと、薄っぺらい結論ですけどw

そして結婚おめでとうございます。
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